第43回JC青年の船とうかい号

寄港地台湾について

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台湾概要

 台湾(たいわん)は東アジア、太平洋の西岸に在る台湾島を中心とした地域の名称。1945年以降はGHQが発した一般命令第1号に基づき台湾へ進駐した中華民国の支配下にあり、1949年の中華人民共和国成立に伴う中華民国政府の台湾移転以降は、中華民国の実効支配範囲とほぼ重複するため、中華民国の通称としても用いられる。現在も、中華人民共和国と独立問題で係争中である。台湾における通常の字体は「台灣」、正式な文章においては「臺灣」と表記する。

人 口 約2,344万人
面 積 36,193km2
言 語 公用語は中国語(北京語)その他、
福建語、客家語
宗 教 仏教、道教、キリスト教
気 候 北部は亜熱帯、南部は熱帯
通 貨 ニュー台湾ドル
1ニュー台湾ドル=3.64円
(2015年9月26日現在)

高雄市概要

高雄市(たかおし/カオシュンし、中国語: 高雄市、英語: Kaohsiung)は、台湾南部に位置する台湾第二の都市。

17世紀に打狗(台湾語: Ta?-kau, ターカウ)という小さな村から発展し、都市へと成長した。ターカウとは平埔族マカタウ族の集落タアカウ社の名称に由来し、そのマカタウ族の言語で「竹林」を意味する言葉であった。1624年にオランダはこの場所に砦を築いたが、1661年に鄭成功によって駆逐され、1664年に万年州(萬年州)が設置された。1684年清の統治が開始され、台湾府の一部として鳳山県が設けられ県治が興隆荘(現在の左営)に設けられた。1858年の天津条約で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられ、そのひとつである打狗港は1864年に開港し、以後外国貿易で栄え始めた。

1895年に下関条約により台湾が日本に割譲されると、日本は海軍の南方方面での補給港を確保すべく打狗開発を進めた。地名に関しては1920年9月の地方制度実施で、「打狗」という文字が卑俗であるとし、またそれまで台湾人にとっての地名と考えられていた民雄(旧「打猫」)との釣り合いも考慮し、台湾総督府により打狗と発音の近い内地の名所でもある高雄(たかお)に改称され[2]、高雄州に帰属するようになった。1924年には高雄郡が廃止され、高雄街は「高雄市」に昇格し高雄州に直属した。

1945年、日本の降伏により台湾は中華民国が接収することになり、高雄市は省轄市とされ台湾省に帰属した。1966年から楠梓区において加工輸出区が開業し、以後加工貿易の工業団地や重化学工業のコンビナートが集積する台湾随一の工業都市となった。1979年7月1日、行政院は高雄市を直轄市に昇格させることを決定、前鎮区に隣接する高雄県小港郷を統合した。

2010年12月25日には高雄県を合併し、市としては最も広い直轄市となった。
市周辺に重工業地帯が広がり大気汚染が社会問題となっている。また外省人の多い台北に対して本省人の多い高雄は野党的色彩や台湾人としてのアイデンティティーへの志向が強く、後に有名になった1979年12月の高雄事件(美麗島事件)なども発生している。この政治的経緯もあり民主進歩党など泛緑連盟の勢力の地盤ともなっている。

高雄は、寿山というテーブル状の大きな台地(標高200m)のふもとに位置する港である。海からの目当てになる山と、旗津という名の砂州に保護された潟は、古くから良港として知られていた。

日本統治が始まる以前から日本統治期間にかけての市街地は、愛河(日本統治時代の高雄川)の西側、寿山山麓に位置していたが、戦後に市街地は愛河の東部に拡大、高雄駅や市の中心も愛河東部に移転した。

中心部は、南から北へ 一心路、二聖路、三多路、四維路、五福路、六合路、七賢路、八徳路、九如路、十全路、と数字を頭にした名前の東西方向の路がある。それらの道路規模は同一のものでなく、また正確に東西方向を連絡しているわけではなく、またその間に中正四路や民生一路などが不規則に位置しているが、数字による南から北への順序は市内交通の位置を説明するのに便利な構造となっている。更にそれら一心路等は、南北の主要路との交差点を区切りとして、東から西に一心一路、一心二路等と区分するので、それぞれの路に沿った東西方向の位置もおおよそ知ることができる。


経済

市内には台湾最大でアジアでも香港港・シンガポール港・上海港に次ぐ規模のコンテナ港である高雄港を有しており、台湾で消費される石油の大部分が輸入され同国の重工業を支えている。また輸出港としてアルミニウム、木及び紙製品、肥料、セメント、金属、機械類、船舶が輸出されている。

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